【神尾文章工房】

本を読んでいる人で、小説を書いてみたり嘱託職員をしていたりポンコツだけど生きているみたいです。

修羅場を越えて。

ふと、思うこと。

 仕事上、色々と窓口で説明やらを行うことがある。で、ひとつの問題に差し掛かる(これ以降の文章には若干、嘘が混入されています。特定を避けるためでもあります)。

「今日って、何々の予定入っている?」

という問い合わせ。結論から言えば入っているから、入っていますよと説明する。その人は、その予定の参加者で、同じ質問は通算で五回は訊かれている。

 仮にあなたがサークル活動をしているとしましょう。その場合、休みだかどうかは、事務連絡担当の人やら、代表やら幹事の人に確認を行うのが普通である。都合良く、窓口の人が知っているかどうかは別の問題になってくるのではなかろうか。
 横の連絡、というものがしっかりと成されていないことが世の中には多い。これで、大学生時代には怒られるし、未だに言われることもある。とはいえ、そういうことは行っているし、ちょっと途切れたり情報不足の問題が主立ったことで破綻と呼べる事態にはなっていない。

 ところが、どうも仕事上、この人たちは横の連絡という概念が存在しないのではなかろうか? という疑問に差し掛かる。冒頭の質問に関しても代表の人はいる。連絡をすればすぐに繋がる人でもある。そして、冒頭の質問の人は予定時間よりも早く来て冒頭の質問を行った。
 電話一本、メール一本で済む話だ。実はあいてはお年寄りである。とはいえ、電話くらいすれば良い。自分の仕事は確かに受付だが、内輪の確認を内輪で済ませられないのはどういうことなんだろうか? 何かを行う次いでならまだしも、それ以外の用事も無い人である。これではお話にならない。友達がいないのか、代表と仲が悪いのか。

それの変速版。

 これは勝手に決めるな、というような出来事。
 仕事上、イベント等の予定とかの調整を行ったりもする。これがどうにも、相手によっては勝手に話を進めている人もいる。29日に打ち合わせの予定だと聴いていたのに、24日になってやってくることがある。そして、そんな連絡は誰も受けていない。そうなれば、担当者とかと会えるわけがない。前日やら、確定やらした時点で一言連絡をしてくれれば良いのだ。担当者は確かに常駐しているが、四六時中いるわけではない。出張にだって行っている。そして、イベントの主催者側の役員がそれぞれ、予定の共有ができていないこともある。
 これには参った。そのため、翌年には日付を言われた後、担当者の出張や外出が重なったので、念のために確認したら、日付を勝手に変更していたので、

「決まり次第連絡を頂かないと困ります。担当はその日、不在なので対応ができません。最初の日、またはそれ以外で対応できる日は無いんですか? こちらとしても四六時中対応できるわけではないので、はっきりと日時と時間を確定させてください。そうしなければ、こちらも対応しようがありません。それで、何日の何時なら宜しいんですか?」

 一気にまくし立てた。要約すると、連絡は逐次しろ。決めたら報告しろ。それだけ。今年は、こういうことがあったからこそ、本当の担当者に悪いけど、という感じで確認をしたらやはり勝手に日時を変えてくる。いい加減にせいや……その結果、私が調整をしてどうにか言い形に収めた。結果として、年下の若い人が担当者だったので、慣れている人の成長を妨げるのはマズイと上司から指摘を受けた。怒られたのではないのが分かっているし、少しも嫌なことではなかった。ただ利用者にモラルというか想像力が欠けているんじゃなかろうか、と感じるしかなかった。

 それ以外だと、教育関係の人間に多少のモラルの欠如があったりする。事務手続きが意外を通り越して雑だったりする。学校も事務手続きとかがメインの仕事のひとつなはずなのに、まとまりに欠けるのは何故だろうか。確かに義務教育辺りの教師は人生ハードモードというか、罰ゲームじゃないのか? という目に遭わされることだってある。
 お願いしたことを一回やってスルーとか、無理なことを言ってきたこともある。というか、前から説明してきたシステムですけどお忘れですか? 確認の電話ひとことも無いのですか? 予定が確定してから施設とか使えるかどうか連絡するのはどういう道理ですか?

「世の中、そんな物。」

 こういう言葉を思い出す。だけど、ハッキリ言って、こういう出来事に遭遇することに三十歳になって気づいた。
 成長しない人はしないし、適当な人は適当だし、自分が十代、二十代と悩んできたことは、そういう人々のしわ寄せでしかないということだった。
 個人的に思っていることは、出会う人、出会う人、生まれた時代に恵まれているだけだという人ばかりに遭遇する。

 そうして、最近思うことは悩んでいることに関して、自分よりもどうしようもない人間はたくさんいるんだということ。見えないところで誰もが苦労していて、欠陥があることも分かる。だけど、少しも自覚することもなく、誰かのことを想像せず、何事も疑問に思わず、生きていくような人もいるんだろうな、っていうことを感じる。

 正直、こんなものに押しつぶされているとすれば、凄く酷いことだと感じている。そう思ってきたら、だんだんと生きるのが楽になってきた。本当に少しだけ楽になった。

長文を書いてしまうこと。

 ツイッターを行っていると分かるのだけど、誤解を招く文章は基本的に言葉足らずだからという理由が多々ある。もちろん世の中には「言い訳」と「擁護」が支離滅裂で論理破綻しているようなことを平気で言う人もいる。これは過去に言われてきたKYとかいう物事にひっくるめることもできる。
 だからといって、こうして文章を書いているつもりでも興に乗って無茶苦茶なことを書いているのではないか、そういう怖さはある。そういう意味で、政治とか色々な問題をツイッターで語るのは、その範疇からでは感情論と偏見的な誤解を生むようなことへの起因にも繋がりかねないような気もしたりする。

最後に。

 何となく、昨今の意味が改変された「中二病」っぽいことを書いてしまった気がする。だけど、本当に毎日のように頑張って、苦しんでいるのに、酷い目に遭わされていると思うなら、自分くらいはまともな人間であろうとは思うべきかもしれない。
 簡単に言えば、誰もが「働き蟻」の「働かない蟻」になりうるのだから。こういうことを知ると、安易にああいう人がいなくなれば世の中が良くなるのでは、っていう安易な想像もしなくなる。間違っていないことを行わないだけで良い。少しはマシになる。本当に最悪な状況があれば立ち向かうのも大事だけど、逃げるのも大事だから。そういえば、逃げることが話題になっているね。