【神尾文章工房】

本を読んでいる人で、小説を書いてみたり嘱託職員をしていたりポンコツだけど生きているみたいです。

小説書くのも、走るのも、激しくマゾな行為である。

本日の記録と走ることについて。

2.2kmを走って11分03秒という結果。もうちょっとで、11分切れそうだった。もう一回、ギアチェンジをして少し無理すれば行けたかもしれない。
昔から言っているけど、走るのは嫌いじゃないけれど辛くなってくると、何でこんなにつらいことをやっているんだ自分は、という自問自答を絶対にする。というか、しなくちゃ走ってなんていられない。走るのなんか嫌いだと思うのは結構。こんなに辛いことを自分からするもんじゃない。水泳でもしてなさい。
と、走る気を削ぐような発言をするのは、こんなにつらいと言いながら、何でお前は走っているのか? という問いに解答を出すためである。

答える言葉が有るとすれば「痩せたい」と「血行良くしたい」と「脳内麻薬ドバドバにしたい」の三つである。

自分は体重のデッドラインを「70㎏」にしている。正直、BMIやら体脂肪率とか見るけど、これに到達したら、数値としてヤバイ事実も出てくる。で、この体重になるといきなり痩せ出すというのが近年の自分である。2011年の秋から2012年の春までで「8㎏」を落としたことはあるが、61㎏になったらフラフラになったので普通に戻して、結果として今は68㎏である。とりあえず65㎏にしたいのが今の理想。ついでに腹筋作りたい。薄めのシックスパック。何でかって言うと、自分は胃下垂なのでどうしても内臓が下がるので、それを少しでもマシにしたいのである。

血行が良い、というのは誰でも良いことだと考えているだろうけど、ここ数年、メンタル面ではこれが大事じゃないかという可能性を感じている。そもそも、脳内のホルモンやら物質とかの影響でメンタル的な物に影響は出るだろう。で、血液っていうのは水路みたいに考えれば、悪い物も良い物も流れていくし、悪い物はそれが排泄とかで処分されていく。で、血行悪ければ、脳に血が巡らないから、それは栄養届かないわ、悪い物は流れないわ、そんなことを考えてきたら運動するのが一番良くないかと感じている。事実、ブランクを置いてから走ると身体が少し痒くなる。これは毛細血管とかに血が巡るからじゃないかと感じている。もちろん動いた方がストレスは抜けるというのも大きなメリット。

で、最後に脳内麻薬。よく、マラソンランナーとかは死ぬまで朝起きてランニングしているような生活だが、あれは中毒みたいな物だとは思っている。というか、全力で走った後の呆然とした顔で歩く時は、実は相当な至福であることをいつも自覚している。実を言うと、クールダウンでゆっくりと歩いているとき、苦痛とも言える走りから解放されて、凄く気分が良くなる。例えるならば、ノイローゼの人がそれを乗り越えて最高の気分になるような感じ。つまり、苦痛からの脱却、それも自分で設定した物をクリアすることだから気分が悪いわけがない。もちろん無茶な計画は立てない。その上で、気分良く走り終え、ほげーっとなっている時こそ、脳内麻薬に浸れて最高に気分が良いわけである。

多分、メインの理由はこの三点であろう。

つくづく思うこととして、引きこもりやら精神的問題の何割かは、運動によって解決する可能性を秘めているかもしれない。とはいっても、集団スポーツなんで無理してすることない。地域の体験会に参加する必要もない。まずは、走ること。ちゃんと準備運動して、軽くウォーキングしてから走ると結構、順調に出来る。走るのに難があれば水泳をする。泳げなきゃプールで水中歩行でもしてれば良い。市民プールが温水だったりすると老人が大挙してやっている。混ざるのが嫌とか言ってるのなら、人の少ないところでジャンプでもしていればいいさ。結果として、何もしないよりはよっぽど良い。

最後に言えることは、これだけさもスポーツの効能を謳っておきながら、途中でストップすることもある。一応、社会人なので色々と事情があったりもする。そこは察してくれ。
ちなみに、私、神尾裕太は走るのは基本、夜にしている。理由は帰ってきてから走ることにしているから。
朝は、心臓に負担がガチで来るのと、基本的に安定して起きられない人なので朝に走ることはしないのです。これが正しいか間違っているかはやる人次第。

とはいっても、やっぱり走るのは辛い。これこそ走るのが辛いけど、メリットを求めてしまうジレンマこそ、マゾっぽいのである。

小説を書くのはマゾ行為。

少しでも小説を書いたら、人に見せるというのも大事だが、最初は自分に見せろ、というのが自分なりのポリシー。
小説を読んで、少しでも「ここはこうした方が良いんじゃないか」という視点を持っていたなら小説を書いて、その自分の書いた小説に同じ台詞をぶつけられるだろうか? それを積極的に行うことが、小説の遂行だと自分は信じている。
今まで、一番力を入れた小説で原稿用紙を183枚分ワープロで作成して、プリントアウトしては赤ペンで漢字間違いの遂行といらない部分、と修正部分をチェックすることの繰り返しを八回繰り返した。結論から言うと、最終稿となった原稿は、原稿用紙換算の160枚まで減った。恐ろしいことに、大事な場面だと書いたところが全然いらなかった。繰り返し、繰り返しとやっていく内に粗がどんどん見えてくる。これを受け入れ、否定する作業、これこそ小説書いていてマゾなことはないと自分が感じることである。

私の個人的な意見に「自己否定ができない人間は、他人の批判も批難もできやしない」と言う。好き勝手言ったところで、底が透けて見えるようなもの。それに、自分はダメだから、と思っているの逃げ。どこまでもがむしゃらにやって、結果がダメだったからそこで自覚して、また何かをするような考え方じゃないと何も続かない。

最後に。

どんなに頑張っていても、悲しいことはたくさんある。

布団にネコが嘔吐をしやがってくれることとか……という悲劇を乗り越えて人間は強くなるのさ(苦笑)